総務部長 
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総務部 町会の掲示板・配布物などの制作管理、その他総合的な活動

下町に生まれ、下町で育った我々は、人との繋がり、絆をとても大切にしています。

当町会の総務部としては、そのような“人”をテーマにしたコメントをアップしていきたいと思います。


渋沢栄一と論語に関連した第2弾です。

今回は、加地伸行氏の『論語こころ』のダイジェストとなります。

人間をありのままに見通し、人間にとっての幸福とは何かという視点に基づいて道徳を論じる事で読む人の人生の指針となってきたのが、歴史的にも愛され続けた『論語』なのでしょう。同書は、論語の精髄を総合的に把握出来るように配慮された論語入門書とも言えます。

加地伸行氏は1936年生まれ、京都大学、京都大学院出身。日本における中国哲学者として関西を中心に各大学で教授され、出版書籍は多数あり。現在は大阪大学名誉教授。

 

論語のこころ       

加地 伸行著     

『論語』は、人間をありのままに見透し、人間にとって幸福とは何かという視点に基づいて、道徳を論じた書である。その大部分は、孔子と弟子、あるいは弟子たちの間の話が語り継がれ、書き継がれたものである。

短い名句が多く生まれたが、短いが故にその前後の事情が不明なので、真の意味がなんであったか、誤解が生じてしまっているケースもある。また前後の文脈が分かっていても誤用してしまう事も多い。

例えば、『過ぎたるは(なお)及ばざるがごとし先進(せんしん)(へん)

これは「オーバーな事(過ぎたる)はだめだ(及ばず)」という意味でつかわれることが多い。しかし、それは誤用である。これは「過ぎたる(過剰)は及ばず(不足)と同じであって、両方ともよろしくない、だからバランスの取れた中庸がよい」という意味である。「及ばず」という言葉が、不足等の事実を指すのではなく、劣っているという価値を示すと思う人が多いので、誤用が通用している。

 

自分の幸せだけでいいのか

孔子は人間を根底から見据えた人である。その人間観は冷徹とさえ言える。

中人以上は、(もっ)(かみ)()()きなり。中人以下は、以て上を語ぐ可からず雍也篇(ようやへん)

現代語訳: 人物を上・中・下に区分した時、中級以上の者には、高度なことを教える事が出来る。しかし、中級以下のものには、高度なことを教えることは出来ない。

すなわち、孔子は人間を2つに分け、物事について、きちんとわかる人とわからない人に区分した。そして、その後者を“民”とした。これは差別ではなく、区分である。

それは『知性』の問題であり、人間には、そのほかに感性や徳性もある。人間は誰しも幸福を求めるものだが、“民”は己の幸福を第一に求めるのである。

孔子は、己の幸福の追求自体は、人間の本能であり、悪いわけではない。しかし、己の幸福にどっぷりと浸かって過ごしていると、安住してしまうに決まっている。すると、それを失うまいと悪事も働きかねない、他者の幸福など考える事もなく、結局は利己主義に至る。利己主義に沿いつつ己の幸福を求める事、これを当然とするのが一般大衆であり、孔子はそのような人々を“民”と表現した。

「民(まぬが)れて恥なし」為政篇(いせいへん)

“民”はその法制や刑罰に引っかかりさえしなければ何をしても大丈夫だとして、そのようにふるまって何の恥ずるところもない、という意味。

法と道徳とは異なるにもかかわらず、現代の日本では、法を順守する事(コンプライアンス)によって道徳的な完成があると思っている人も多い。道徳的に行動する事によって、結果的に法令順守となる。民はそうあるべきなのに、なかなかそうはならず、道徳的であることは忘れて、法に引っかかりさえしなければ何をしても良いと考えている。孔子はこうした“民”の本質をえぐり出している。

孔子の時代、産業、地域、人口など、あらゆる面での拡大が日に日に進んでいた。そこで、有効性を発揮し始めて来た“法”と、旧来の共同体社会における道徳とが、一致する時もあれば一致しないときも起こり、指導方針が、道徳(徳・礼)か法(政・刑)かと揺れるようになってきた。孔子は共同体論者であったから、法的指導、法的政治を攻撃し、批判していた。多様な人間の集まる社会で、個体の利己主義を抑止する『知恵』としての道徳が、『道具』として法を作ってきた、またその要求が大きくなってきた、と考えられる。

 

他者の幸せを求めて

孔子は弟子たちに“志”を求めた。そうした“志”を持つ人物を“士”とした。

孔子の時代は農民が90数パーセントを占めており、物を生産する工民、物を消費地に運搬する商民の順で身分がなされていた。それに士民が農民・工民・商民を統治していた。

“士”の高級クラスが“大夫”である。更にその上位が“卿(ケイ)”であり、行政を司っていた。行政は民心を得るためには平和的に統治する政治理論が求められる。この有識者が周囲の者を感化し、文化し、教化し、徳化してゆく事を理想としたのが発展して中華思想となった。

道徳的に人々を感化する統治を『王道』と言い、これに反し、力・武力で統治するのを『覇道』と言う。王道による徳化統治は、民を幸福にする=他者のための幸せを願う事である。

それを現実化する道は、士となり行政を担当する事であるとしている。

孔子の父は農民。母は儒(ジュ)と言う祈祷師集団の出身であり、社会的差別を受けていた。幼少期に父は他界しており、その先妻との間にできた子供(孔子にとっては異母兄弟)が十人おり男子は一人で身体が不自由であった、また、母も孔子が少年期に亡くしており、孔子の肩に一家の生計が重くのしかかっていたようである。当時の身分は限定されておらず流動的で、志と才能があれば孔子のように士民となり、後に大夫にまでなっている。

政治は、現実そのものであり、まずは民を飢えさせない事である。民の生活が安定すると、外敵がその豊かさを奪いに来る為、その侵入を防ぐ国防が国家の基本ととらえている。さらに重要なのは、政治に対する信頼である。公金をでたらめに使い、生活困窮者を見捨ててしまうと、信頼を失ってしまう。    

孔子曰く「食を足らし、兵を足らし、民之を信ず、と・・・・・・」顔淵篇

弟子の子貢が為政者の心構えを尋ねた話で、民の生活安定、十分な軍備、政権への信頼である、と答えた。子貢が三つのうちまず捨てるものは、との問いに、“軍備の軽減”次に生活である、食がなければ死ぬが、人間は必ず死ぬものだ、と答えた。もし為政者への信頼がなければ、国家も人も立ち行かなくなるものだ、と述べた。

 

学ぶとは何か

学ぶことに関して2つの方向が見られる。

一つは「生まれながらにして之を知るものは、(じょう)なり。学びて(これ)を知る者は、次なり。(くる)しみて之を学ぶものは、又()の次なり。(くる)しみて学ばざる、(たみ)()()となす。季氏(きし)

【之とは人の道(道徳)を意味する】  

中人(ちゅうじん)以上は、以て(かみ)()()きなり。中人以下は、以て(かみ)()()からず。雍也篇

【上とは、高度な事。()ぐとは、教える事。】 

これは要するに、学ぶ者の能力には序列があるという事である。

これは厳しい現実であるが、事実であり、人間の世界における真実である。孔子は、人間とはどうゆうものであるのか、という事について、しっかりとした見解を持つ事がなければならないとした。曖昧な形で人間肯定したら困難なこと等にぶつかった時に人間観がグラつき人間の諸問題を解決できないことになる。

学ぶことについて、知の世界では“考える”こと、すなわち“思う”ことが同時に必要である。「学びて思わざれば、(すなわ)(くら)し。思いて学ばざれば、(すなわ)(あや)うし為政篇

もう一つの方向は、学ぶ内容は、知的世界だけではないという考え方である。

(いにしえ)の学ぶものは己の為にし、今の学ぶ者は人の為にす」憲問篇

「己の為に」とは「自分を鍛えるために」、「人の為に」とは「他人から名声を得るために」と言う意味である。「己の為に」とは己の道徳的充実を図る修養という事であって、単なる知的技術者に終わらない事が大切だという主張。学ぶことは知性を磨くことではあるが、その上に徳性を磨く事だと言う。教育は人間を造る事が目的であり、知性と徳性を備えた者の事であり、人間社会の規範()を身につけた者である。

 

教養人と知識人と

孔子は、為政者集団の中における為政者の在り方として、君子・小人の基準は徳があるかどうかで評価。有徳者となって初めて民の模範となるのであり、それが民を率いることのできる重要条件。“小人”は知的訓練のみに終わっている“知識人”、“君子”は知的訓練と道徳的訓練との両者をこなしきれた人、則ち“教養人”という事であろう。

現代の日本では知的訓練中心で大学まで進み、その意味では知識人を社会に送り出したことに成功しているが、『論語』の立場から見れば、知識だけの“小人”を送り出したにすぎない。

“徳性”の訓練と言っても難しいことではない。まずは、すぐ近くの愛すべき人を愛する事から始めるだけの事なのである。親を愛し、配偶者を愛し、子を愛することによって、結果的に社会的トラブルの大半は起こらないであろう。

「身を(おさ)めて(しか)(のち)に家(ととの)い、(ととの)いて(しか)(のち)に国(おさ)まり、国(おさ)まりて(しか)(のち)に天下平らかなり」【礼記(らいき) = 修身(しゅうしん)斉家(せいか)治国(ちこく)(へい)天下(てんか)

世界平和とか、差別をなくそうとか、大きなテーマで悩むより、自分が今すぐできる身辺の諸問題について“徳性”を磨く事です。身近な人を愛するという基本的な手近な事すら十分に出来ないのが現実であり、路上にごみを捨てたり、並んだ列を乱したりする徳のない“知識人”と言われている人が多くいるのも実態です。

 

人間を磨く

孔子は何よりも徳性(人格・人間性・人間的常識・人生観等)を重んじた。

今日の日本で、文化・教育において最も軽視されているのは道徳であり徳性である。今日の中国もまた同様である。実社会において最も求められるのが徳性であり道徳なのである。

己に克ちて礼に復するを、仁と為す」顔淵篇

「己に克つ」とは、禽獣(きんじゅう)的自由利己主義を乗り越える事。「礼に復す」とは、社会的規範()に戻ることである。「仁」とは愛、人間愛である。つまり、「利己主義を乗り越え、社会的規範に基づく事、それが真の人間愛である」という事を述べている。

「徳有る者は、必ず言有り。言有る者は、必ずしも徳有らず。仁者(じんしゃ)は必ず有あり。勇者はかならずしも仁有らず」憲問篇

「真実ある人の言葉は必ず美しいものである。しかし、言葉の美しい者に必ず真実があるとは言えない。また、真理に忠実な者は必ず勇気に富むものである。勇気のある者のすべてが真理に忠実であるとは限らない」五十沢二郎氏 訳文

 

日本語の中で生きている論語

(おのれ)()かざる者を友とする無かれ。(がく)()

(あやま)ちて(すなわ)ち改むるに(はばか)ること(なか)れ。学而篇

和もて(たっと)しと為す。学而篇

君子は器ならず。為政篇

既往(きおう)(とが)めず。(はちいつ)

吾が道(いち)(もっ)(これ)を貫く。(一貫) ()(じん)

下問(かもん)を恥じず。(目上の人が目下の人から教えを乞う) (こう)()(ちょう)

鬼神(きしん)を敬して之を遠ざく。(敬遠) 雍也(ようや)

道に(こころざ)す。(志道) (じゅつ)()

芸に遊ぶ。(遊芸) 述而篇

発憤(はっぷん)して食を忘る。(発憤) 述而篇

怪力・乱神を語らず。(怪力乱神) 述而篇

威ありて(たけ)からず。 述而篇

任重くして道遠し。(たい)(はく)

死して(のち)()む。泰伯篇

民は之に()使()()し。之を知ら使む可からず。泰伯篇

過ぎたるは(なお)及ばざるがごとし。(せん)(しん)

死生(しせい)(めい)有り、富貴(ふうき)は天に在り。(がん)(えん)

民信ずる無くんば立たず。顔淵篇

(すく)なきを(うれ)えずして、(ひと)からざるを患う。()()

(あい)近し。習い(あい)遠し。(よう)()

鶏を割くに、(いずく)んぞ牛刀を用いん。陽貨篇

道に聴きて(みち)()くは、徳を()()つるなり。((どう)(ちょう)()(せつ)) 陽貨篇

可も無く、不可も無し。()()

備わらんことを(いち)(にん)に求むる無かれ。微子篇

 

これらの言葉は、人間の知恵を示している。『論語』は、自己を磨くときの手段としての古典の地位を得ている。それは、他人に見せびらかすようなものとは異なる。あくまで内面的なものであって、究極の自己鍛錬を意味する。

 

若者との対話

孔子の弟子は、大きく分けると一期・二期・三期に分けられる。

一期とは、孔子が20代のころに弟子となった古い弟子である。武闘派の()()がその代表格。二期とは、30歳を越えた孔子が開いた学校に入学した者たちであって、()(こう)(がん)(かい)たちがその代表である。この学校は、その後孔子が55歳で失脚し、流浪の旅に出て69歳で祖国である魯国に帰国するまでの間、巡回しながら続いていた。

三期とは、魯国に落ち着き、74歳で亡くなるまでの5年間である。期間としては短いのではあるが、魯国において固定された学校であったから、若い学生が多く進学してきた。この三期の学生が孔子の学問を継承してゆく事になった。

一期・二期の弟子は、孔子と辛く苦しい旅をつづけ、孔子は単なる師ではなく、むしろ(こころざし)を同じくする同志の感覚であったろう。一期・二期の学生たちは善政を()民の為の為政者たらんとする理想に燃えていたが、三期の学生は、孔子の学校を通じて為政者として就職する事が大きな目的であったようである。老人と若者と言う年齢差は大きかったにもかかわらず、孔子は若い弟子たちと良く対話をしていたようである。特に宿舎に住み込んでいた弟子たちとは話す機会が多く、弟子たちからの悩みを打ち明けられる話も多く残っている。

『子曰く、後生(こうせい)(おそ)()し。(いずく)んぞ(らい)(しゃ)の今に()かざるを知らんや。四十・五十にして聞こゆる無きは、()(また)畏るるに足らざるなり。』

若い者(後生)(あなど)ってはならない。後輩(来者)よりも現役の者()の方が優れているとどうして分かるのか。(結局は若者に問題はあるが)現役と称しながら四十・五十となっても、まだその名が聞こえないようならば(人の評判にならぬ者)、(おそ)るるに足りない(問題がある)。

 

人生における良き生きた知恵

困難に出あった時、人は何を頼りにするであろうか。家族・友人・先輩と様々な支援はある。それはそれで心強い。しかし、最後の決断は、やはり己一人でしなければならない。人間は弱い存在である。すべてを独りで背負い込むには、なかなか耐え難い。そういう時、古典の言葉に従うと、気持ちが明るくなり、気分が軽くなる。決断の理由を古典の言葉に従ったとして自分なりに合理化できるので、気が楽になる。

人生、明るく楽しく気持ちよく過ごせることはまずない。まして、清く正しく美しく生きることは困難である。人の世は“理不尽の世”であるという覚悟が必要である。その理不尽の世を生きてゆかねばならないのだから、何よりも人生の用心が肝腎である。

『論語』の君子三戒はその代表。

「子曰く、君子に(さん)(かい)有り。(わか)き時は、血気未だ定まらず。之を(いまし)むるは色に在り。其の(そう)なるに及びては、血気方に(つよ)し。之を戒むるは(たたか)いに在り。其の()ゆるに及びては、血気既に(おとろ)う。之を戒むるは(とく)に在り。」 季氏篇

青年期は身体の欲求が不安定で動物的である。その性欲()を戒めよ。

壮年期になると「血気(まさ)(つよ)し」=血気が安定し、自信もあり、他者に負けまいとする、己の見識も出来てくが、その競争欲()を戒めよ。

老年期を迎えると失う事がほとんどである。身辺の親しい人の死を送る。かつての職場の人間関係も失う。そして日々、財産を取り崩してゆく。こうなると、人間を信じず、物だけを信じる事になる。物欲()を戒めよ。

 

孔子像

孔子の一生とは、世俗的欲望にふくらみ、その欲望に()されてもがき続けた生涯であった。自分が世に出るチャンスを、待ち続けたのである。

それを最もよく表しているのは、論語の最初の言葉である。孔子三十代の言葉と想定される。

「子曰く、学びて時に之を習う。(また)(よろこ)ばしからずや。朋遠方()り来たる有り。(また)楽しからずや。人知らずして(いか)らず。亦君子ならずや。」 学而篇

 

『学びて(つね)に之を習う。亦(よろこ)ばしからずや

自分が認められていつ召し出されるのか、それはわからないけれども、絶えず準備して、いつでもそれが活用できるよう常に復習する。自分が抜擢されないからと言って不平のまま怠惰に日を送り、せっかく学んだ事が錆びついてしまうようであってはならない。だから「(つね)に」一剣を磨くのだ。そのようにして自分の身についているのは、なんと愉快ではないか。

(とも)、遠方()り来たる有り』

私を忘れないで尋ねて来た友と徹夜で話しあったであろう翌日、友を見送って、己を戒め、

『人、知らずして(いか)らず。亦君子ならずやと述べている。

世間に私の能力を見る目がないとしても、それに耐えるべきであって、不平不満を言い、怒ったりしてはならないのだ。世間は誰も俺を知らないのかと口に出しては、男が(すた)る。他人が自分を知らないと言って腹を立てたとしたならば、では、お前こそ他人の優れた才能を見つけ、世に紹介したのかという事になるではないか。それが教養人と言うものだ。

 

孔子最晩年の言葉(全編結びの最終章)は、静かに人間一生の在り方を整理した達観のようなものを感じる。

『孔子曰く、命を知らざれば、以て君子となる無きなり。礼を知らざれば、以て立つ無きなり。言を知らざれば、以て人を知る無きなり』 (ぎょう)日篇(えつへん)

(人間は、神秘的な大いなる世界における、ごくごく小さなものであるから)自分に与えられた運命()(さと)らない者は、教養人たりえない。(人間は社会生活をしているのであるから)社会規範()を身につけていない者は、人の世を生きてゆく事は出来ない。(人間は言葉を使うのであるから)ことば()について理解できない者は、人間を真に理解することは出来ない。

「命・礼・言」は、いわば「天・地・人」である。

「命」、人間の運命であり、これは天が与えた者である。それが天命であれ、使命であれ、最終的には運命である。

「礼」は、人間社会の規則・規範である。地上での避けることのできない約束であり、人間は人間社会――当時にあっては、共同体――それを離れて生きることは出来ない。礼は共同体の規範であり象徴である。

「言」は、人間個人の表現である。「命」は「礼」に似て、言語体系として存在しているものであるが、「言」は、言語活動・言語行為である。人間の生き生きとした行為である。

“言とは心の声”と(りゅう)(ほう)(なん)は言っている。

運命・共同体・言語行為――この三者を理解できる知性を持つ者こそ人間であると孔子は考えていた。孔子の全思想が濃密に、かつ意味深長に託されている。

 

孔子の生涯と言えば、下記の言葉に尽きる。これらの言葉の中に、孔子の万感の思いがこもっている。孔子最晩年の回想である。

『子曰く、(われ)(じゅう)(ゆう)()にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして(みみ)(したが)う。七十(しちじゅう)にして心に欲する所に従いて(のり)()えず。』

 

私は十五歳になった時、学事に心が向かうようになった(志学(しがく))。三十歳に至って(ひと)りで立つことが出来た(而立(じりつ))。やがて四十歳の時、自信が揺るがず、もう惑う事がなくなった(不惑(ふわく))。五十歳を迎えたとき、天が私に与えた使命を自覚し奮闘する事となった(知命(ちめい))[その後、苦難の道を歩んだ経験からか]六十歳ともなると、他人の言葉を聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった(()(じゅん))。そして、七十のこの歳、自分の心の求めるままに行動しても、規定・規範((のり))からはずれるというようなことがなくなった((じゅう)(しん))

孔子は村役人であった20代のころ地元魯国の中央官庁入りを願ったが、国家儀礼のような大礼の素養に乏しかった為、勉学をし直す為、周王の都へ留学した。礼を学び帰国する事になったのが「三十にして立つ」であった。その時の老先生は、「お前は我を出しすぎる、謙虚であれ」と注意している。孔子は、いわゆる“目立ちたがり”であった。

帰国しても孔子はすぐに登用されなかった。当時、魯国は国君の下に、李孫、孟孫、淑孫の国君と血縁がある三権門がいた。これを(さん)(かん)と言う。とりわけ李孫氏が実権を握り、国君はロボットのようなものであった。その執事に(よう)()がおり、孔子の中央政庁進出はその陽虎氏の意向次第であったが、孔子と陽虎の関係は以前から敵対的関係にあった。

そのような環境下、孔子は魯国の国都で学校を開き弟子を養成し一つの勢力として揺るがぬ地位を得ていった様である。四十代後半まで孔子学派の内部充実の時期であった。孔子の名はすでに高まっていたが「四十にして惑わず」とはこのころの心境と想定される。

孔子四十九歳の時に魯国で三桓(さんかん)失脚を図るクーデターが起こり、その総帥が陽虎であった。このクーデターは失敗した。新たな国君の定公が、孔子を臣下として重要ポストを与えた。孔子はやがて閣僚になり「五十にして天命を知る」のはこの時であり、使命感に燃えていた。実質的に首相格となり、節約経済、道徳重視と言う汎農業主義を打ち出したが、商業経済の発展が顕著な時代となり、その消費意欲とのギャップから人気がなくなり、五五歳で失脚し魯国を去る事となった。

その後、弟子を引き連れ諸国を回り六九歳の時に魯国に帰国した。十数年の放浪で、いろいろな意見に耳を傾けるようになったのであろう。「六十()(じゅん)である。

七十四歳でこの世を去るまでの最晩年、再び学校を開き、思索を続け、その思考が最も濃密であった。「七十従心」である。

以上

追記

孔子が当時不治の病であったハンセン病を患った弟子の(ぜん)(はく)(ぎゅう)を見舞った時のこと。

『伯牛(やまい)有り。子(これ)を問う。(まど)()()の手を()りて曰く、(これ)()からん。命なるかな。

斯の人にして、斯の疾有り。斯の人にして、斯の疾有り、と』雍也篇

弟子の伯牛((ぜん)(こう)(あざな))が重い病気になった。孔子が見舞いに行かれた。(ハンセン病で容姿も崩れた伯牛は人に会おうとしなかった為)孔子は病室の小窓から手を差し入れ、涙を流す伯牛の手を握っておっしゃられた。「こんなことがあってよいものか。運命だ。この人が、この病に(かか)るとは。この人が、この病に(かか)るとは、と

この人間社会の“不条理”に対する、いかんともしがたい歎息(たんそく)であった事が分かってくる。一心に努めて徳行にはげみ、そしてなんら(むく)われることなく業病(ごうびょう)に倒れてゆく人間存在。あくまで現実的な思想家である孔子は、神にすがれとも言わず、天の道があやまっていると怒りもしない。しかし、激烈な言葉を吐くことなく、ただ歎息(たんそく)したにすぎぬことが、感動がじわじわ胸を突き、こうでしかあり得ない人間と人間との交わりの姿が、時空を超えてよみがえる

 

 

論語以外でも誤用される名言・名句も多くある。

 

「先ず(かい)より始めよ」 『戦国策』(えん)(さく)

現在は、「それを言い出した者から率先して実行せよ」と言う意味で使われている。

元の意味は、燕国の君主が人材を得たいと思い、(かく)(かい)と言う人物に相談。郭隗は、「愚かな私を高い位に任用なさいませ、それをみて、あの程度の男を重用するのなら、自分が応募しようと優れた人材が集まりますでしょう」と答えた。結果、良い人材を得る事が出来た。

本来意味では「お前のような凡クラに、言い出したことをさせよう」となってしまう。

 

「君子は豹変す」 『易』革卦

「考えや態度がガラッと変わる。変節する」と言った意味で使われている。

本来は「君子は過ちをぱっと、はっきりと改める」と言う意味。

 

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」『学問のすすめ』福沢諭吉

原文は、その続きがあり、「にもかかわらず人間社会において、人にいろいろと差異が生まれてくるのは、学問がないからであるので、しっかり学問を身につけ、人の下にならないようにせよ、学問は大切」という“学問のすすめ”である。

人間は平等である事を説いたことばとして引用されることが多いが、学問・知識を身につけ、それを元手に良い生活をしよう、というような内容である。

 

以上

 

2024.03


20247月に1万円札の“顔”が福沢諭吉から渋沢栄一に変わります。

「日本資本主義の父」と称された渋沢栄一は「論語」を通じて、身分に応じた道徳理念や清廉の思想を身につけた、と言われています。その考えは、著書『論語と算盤』にも書かれています。そこで“新しい一万円札”の発行前に、渋沢氏が人生の指針とした『論語』について解り易く、二人の書籍を中心にダイジェストしてみました。

論語そのものについては、論語の大家である加地伸行氏の『論語のこころ』を第2弾とします。まず、石平氏の著書『なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか』で、“孔子”とはどのような人物で、孔子の言行録である『論語』とはどのような書物なのか、を見てみましょう。また渋沢氏が「儒教」の道徳にも影響を受けましたが、同書は渋沢氏が学んだ本来の儒教と、歴史と共に変化、変異していった儒教についても、触れております。

著者の石平氏は1962年中国四川省成都に生まれ、幼少期から漢方医であった祖父から論語を学んでいました。北京大学哲学部を卒業後、1988年来日、1995年神戸大学大学院博士課程を修了。その後、日本に拠点を置き、評論活動を中心に、中国に精通した知識人として、中国に関係した多くの書籍を出版しています。

 

なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか

石 平 著

孔子とは? 論語とは?

孔子の考えや見解には「深遠な思想」というよりも一般社会の常識論であるものが多く、我々にとっての孔子は、高い所に立つ「偉大な思想家」であるというよりも、「身近にいる人生経験の豊富なご老人」のような存在である。

『論語』の主人公である孔子は平素から人生や世界の「根本原理」には一切興味がなく、それを追及しようとは全然思っていない。孔子は様々な場面で「孝」や「忠」や「義」をいろいろ語っているが、「孝」という徳目の根本はいったい何か、「忠」や「義」の基本原理はいったい何かを一切語っていない。

中国古来の思想と信仰を支える重要な柱である「天」というのは森羅万象の支配者であり、人間の運命の支配者である。世界の無言の支配者である「天」は畏怖すべき存在であり、(うやうや)しく拝むべき信仰の対象なのである。

孔子にとっても「天」は絶対的な力を持つ信頼すべき存在であり、一般の人達と同様に、わが身とわが心の最後のよりどころとなっている。

『論語』『儒教』研究の大家である加地信行氏は「孔子の教えに欠如しているのは、普遍的なものに対する哲学的議論」である、と指摘しているように、孔子は本当の意味での思想家でもなければ哲学者でもない。しかし、孔子に対する共通の称号は「聖人」となっている。

孔子は、儒教における崇拝の対象にもなっている。

「聖人」とは、人格と徳行がもっとも高く、もっとも完璧にして理想的な人間であることになるが、『論語』に出てくる孔子に関するエピソードは、時として意地悪く人の気持ちをもてあそぶ事もあれば、カンシャクを起こして弟子の自尊心を平気で傷つける事もあった。

われわれ普通の人間と同じように、怨念や(ねた)みなどのマイナスの感情を持つ事もあった。

それでは、孔子は「ダメな人間だ」という事ではなく、聖人と呼ばれるほどに「完璧にして理想的な人間」ではない、という事である。

にもかかわらず、中国史だけでなく世界史にも大きな足跡を残したことも事実である。

孔子が生まれたのは紀元前552年、中国の春秋時代末期である。春秋時代というのは、中国大陸を支配していた周王朝の権威が衰えて、諸侯国が互いに対立し抗争する時代である。孔子の出身国の魯はその諸侯国の一つであって、王室とは親戚関係でもあった。

孔子は、魯の国の下級武士であった父と不倫関係にあった女性との間に生まれた私生児であった。孔子3歳の時に父を亡くした為、貧困となった母親の手によって育てられた。厳しい環境の中で幼少時代を送っていた事になるが、この経験が思慮深く処世術にたけた孔子の人となりと、社会や人生に対する深い洞察につながったと思われる。

長じてからの孔子は、生活の為に倉庫番や牧場の飼育係等々色々な仕事をした。一方、若い時から学問に打ち込み、周の文化の真髄となる“礼”や“詩”“楽”の習得に励んだ。いつしか、魯の国屈指の教養人・学問家となっていた。40代頃から孔子の名声は高まり、彼のもとに門人達が集まって学団を形成。やがて魯の国の政治にも関わる事となった。

54歳の時に、孔子は魯の国の司法大臣に昇進したが、翌年権力闘争が起き、それに敗れた。その為、14年間弟子たちを率いて諸国を放浪し、69歳の時に魯の国に帰ってきた。以後は弟子たちの教育に専念し、紀元前47974歳の生涯を閉じた。

生涯で3000人の弟子を育てた孔子は、人にとっての賢明な生き方とは何か、人は、いったいどうやって穏やかにして幸福な人生を送ることが出来るのか、人は社会の中で生きてゆく為にどのようにして人間関係を作り、どのような身の処し方に留意しなければならないのか等々の、まさに「人間の問題」「人生の問題」を深く考えて様々な知恵を生み出した。

『論語』の中で、弟子の1人が孔子を評して

「子、  四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」と述べている。

「先生は四つの事を絶たれた。勝手な心を持たず、無理おしをせず、執着をせず、我を張らない」(金谷治 訳)

普通の人であれば、なかなか絶つ事は出来ない事柄であるが、弟子から見ての孔子の実際の生き方であれば、孔子は賢明な知恵者で、老練な人生の達人であったと言えるであろう。

前述したように、『論語』という書物は決して「聖典」ではない。現実の世界をいろいろと語る書物であって、したがって宗教色はほとんど持っていない。

孔子の展開する常識論は、彼自身の波乱万丈の人生体験や多色多彩な職歴体験から得られた、人生や社会に対する深い洞察に基づいたものである。それゆえ、普通とは違う厚みがあって、奥行きが深く、まさに「平凡な真理」とも呼ぶべきものなのである。

 

儒教の成立と悪用された孔子

孔子が生きていた春秋時代は、中国史上の封建制時代である。

春秋時代から戦国時代を経て、紀元前221年に秦国が7つの大国を押さえ、天下を統一し秦王朝を樹立。封建制を廃止して、中央集権制の政治システムを作り上げた。秦王朝は

紀元前206年には滅んだしまい前漢の時代となった。紀元前141年、その7代皇帝の武帝の時代に、統一帝国と中央集権制がきちんと整備された時代に儒教が成立した。

漢時代に成立した儒教は孔子と『論語』とはほとんど関係なく、戦国時代を生きた孟子と荀子の二人が「儒学」の思想的基礎を築いた事に起因する。

孟子は孔子の死後百数十年後に活躍した思想家で、『論語』と同様に孟子の死後に編集された孟子の言行録である。孟子の語った政治論などはまさに「思想」と称するにふさわしいもので「性善説」「四徳」「王道政治」の三つのキーワードで概観できる。「四徳」=「仁・義・礼・智」に基づき行動すれば、社会がよくなり人民が幸福になり、天下は自ずと安定する。「徳に基づく政治」を「王道」と名付けて、「覇道」と呼ばれる「力に基づく政治」へのアンチテーゼとした。

荀子は、性悪説を唱えてそれを自分の学問と思想の基本原理とした。万民が性悪であるからこそ、道徳規範や制度()を制定し、万民を善なる道へと導くのが、天下の君主たちの務めである、との思想体系を築き上げた。

孟子も荀子も、孔子を推奨し、孔子の思想的後継者と自任していた事もあって、後世の儒教学者達は孔子の名声を悪用して孔子を儒教の「教祖」に祭り上げていった。

前漢第7代皇帝の武帝の時に、儒学者“薫仲舒”が皇帝権力の正当化と絶対化のために

「天人相関説」という理論を打ち立てた。

人間世界で起きているすべての出来事や現象が「天」と相関しており、全ては「天」の意志によって左右され支配される。天の意志は天子=皇帝を通して実現されるという理論である。また、「性三品説」も打ち立てて、さらに皇帝の権威を正当化した。薫仲舒の手によって、学問としての儒学が政治権力を正当化するためのイデオロギーとなり、後世で言われる「儒教」となった。そして儒教は国教化に道を開いたのである。

その後、後漢王朝が崩壊し、三国志の大乱世が始まり、南北朝時代となっても儒教は依然として国教としての地位を占めていた。但し、北朝を立てた「五胡」と呼ばれる少数民族は仏教の振興に力を入れて、それと共に「道教」も勢力を伸ばした。その後、581年隋王朝が創建されて中国大陸が再び統一されると儒教の国教としての地位は再び強化された。その主因は、儒教の教養と知識を身につける事が必須条件の官僚の登用制度である「科挙」制度が創設された事にある。

人生論や人間論を語った孔子、そしてその言行録である『論語』とは何の関係もなく、また、孟子や荀子の思想とも乖離した『儒教』が時の国家権力と一体化していくのに伴って、儒教と国家の両方によって孔子の神格化が進んでいったのである。

 

朱子学の誕生と儒教原理主義

唐王朝は開国皇帝の高祖の時代から仏教を崇拝すると同時に、道教も崇信した。同時進行的に、前漢以来の歴代王朝と同じように儒教を国家的イデオロギーに祭り上げている。

唐王朝のもとでは、儒教・仏教・道教の「三教」が保護と崇信を受けて、三大勢力として並立するような状況となった。

唐王朝後半には儒教復興運動が始まったが、その約200年後の西暦960年に建国された北宋王朝時代、初代皇帝が徹底した「文治主義」を貫いてから儒教が優遇・重用されるようになった。その初期の代表的人物が『太極図説』を著わした周敦頤である。その後を継いだのが程明道・程伊川兄弟で「二程」と呼ばれた。この二人が「天理」の概念を表わした。天理とは、天地の持つ法則、道理の事であるが、天理の最大の働きは万物を生み育てる事である、という新しい儒学の誕生の為の準備を整えた。

南宋が創建されたのは1127年であるが、その3年後1130年に後世で言う朱子となる

朱熹が誕生した。彼は「二程」を受け継いで新しい儒学を集大成し「朱子学」を打ち立てた。

朱子学の中心概念が「理」である。「理」とは天地万物の生成・存立の根源である。仁義礼智信を内容とする最高の善でもある。一方、朱子学は天地万物の構成元素である「気」の存在も認めている。「気」が集まって形成したのが人間の肉体であり、それに対し、「理」は人間の中にあっては精神、人間の「性」というものである。個々の人間を形成する「気」は清濁の差があるから、個々の人間には賢愚の差がでる。そして「気質の性」は動き出して外物と接触を持つこととなるから、そこからは「情」と「人欲」が生じてくる。人間が節度の無い行動をとるのも、悪に走ってしまうのも、全部「本然の性」から離れて「気質の性」に身を任せた事の結果である、と論じている。

そこで朱子学が提唱するのが、「礼教社会」の実現である。「礼」とは要するに礼節と道徳規範の事である。礼節と規範をもって、人の発する「情」を正しく規制し、「人欲」を封じ込めて殺してゆく事だと言う理屈になる。礼教主義の典型的なスローガンこそ、

「存天理、減人欲」(天理を存し、人欲を滅ぼす)なのである。

明王朝時代を通して、朱子学と礼教は国家的教学とイデオロギーとなって、「科挙」の世界から農村の地域社会までを完全に支配するようになったが、明王朝を継ぐ清王朝においても状況はほぼ同じである。明朝と清朝を合わせて、朱子学と礼教が五百数十年間に渡って中国社会と中国人の思想・倫理を支配した事になる。

朱子学にとって、「天理」への到達に妨げとなる「人欲」は圧殺すべき、と考えている。

性欲がその筆頭で、男性はおおむね容認するが、女性は徹底的に抑制された。女性は子供を産み育てる事が役割で、夫が死亡して子供がいない場合は夫に殉じて自ら命を絶つ事になり、子供がいる場合は、貞節を守り生涯再婚が許されない。朱子学と礼教は、女性への「守節」と「殉節」を強要し、社会生活を支配する絶大な影響力を持っていた。

 

朱子学を捨て論語に「愛」を求めた日本

日本史上に儒教が伝わったのは飛鳥時代と想定されている。それから江戸時代になるまでは仏教の導入に熱心であった為、儒教には冷たかった。

天下統一を果たした徳川家康が安定した政治的取り組みを作っていくために、儒教を幕府の政治理念として取り入れた。当時の儒教は伝統的な儒教ではなく、新儒学であり、すなわち朱子学であった。しかし、儒教とペアーになっている「情」を規制し、「人欲」を封じ込めて「守節」と「殉節」を徹底した“礼教”には何ら興味を示さなかった。

家康が朱子学者として起用したのは、林羅山とその師である藤原惺窩で、四代将軍の家綱まで仕えた。五代将軍綱吉には木下順庵、六代将軍家宣と七代将軍家継には新井白石、八代将軍吉宗に室鳩巣が仕えた。江戸前期に在野の朱子学者である山崎闇斎は全国的な名声を得て、門下生が6000人もいたと言われている。

荻生徂徠、伊藤仁斎、山鹿素行も朱子学を学ぶことから学問をスタートした。初期段階では朱子学の信奉者であった。しかし、山鹿素行がまず朱子学の諸概念を批判した『聖教要録』という書物を刊行した事によって、幕府から処分を受けてしまった。

荻生徂徠の場合は、朱子学が古代の経典に対する歪曲の上に成り立っている学問であると批判し、漢時代以来の儒教の「道統」そのものを完全否定した。

(注)道統:朱子学者の「孔孟の道を継承する朱子学が儒学の正当である」、という考え方。

朱子学に対してもっとも根本的な批判をしたのが、京都に住む在野の伊藤仁斎であった。

朱子学の唱える峻烈な原理主義とその実践法は、儒教の始祖とされる孔子の考えとは全然違うと、朱子学から離反した。儒学古典の曲解や歪曲を洗い落として、儒教思想の本来の姿を取り戻すべきであると、仁斎は考えた。『論語』や『孟子』に書かれている古の言葉を、その本来の意味(古義)に於いて理解し会得する「古義学」という独自の学問を考えた。

仁斎が『論語』から読み取ったものは、「愛」の原理である。

君臣という政治関係から父子という親族関係まで、夫婦という結合関係から朋友という交友関係まで、すべての人間関係を支える根幹的なものは、人間の心から発する「愛」という感情であると、仁斎は考えた。愛があるからこそ、君臣が「義」によって結ばれ、父子が親しくなって、朋友は互いに信頼しあうのである。愛がないなら、仁も義も信も、ただの「偽」となるのである。ここで言う「愛」とは絶対的な原理でもなく、具体的な人間関係において、生身の人間がその心から発する真情そのものである。

「愛」は絶対的な原理として外から人間の心を支配しようとする朱子学の「天理」とはまさに正反対のものであり、新儒学としての朱子学を原理的に完全に否定したのである。

中国の明清時代を完全に支配し、また隣国の李氏朝鮮時代をも完全に支配した“朱子学”であったが、日本においては、京都に住む在野の一人の「町学者」によって、その朱子学が本格的に論破され、徹底的に否定されたことになったのである。

 

まとめ

日本人は古代から『論語』を読んできた歴史がある。『論語』の精神を心得ており、現代においても『論語』は一貫して根強く愛着をもたれている。

『論語』は決して不滅の経典ではない。人はどのようにして自分自身を高めていくべきか、人は社会の中で生きてゆくためにどのようにして人間関係を築くべきなのか、人は穏やかで豊かな人生を送っていくためにどうすべきなのか等々、我々すべての人間にとって重要であるはずの諸問題について、『論語』は多くの事を教えてくれています。また、多くの示唆も与えてくれているのです。

『論語』が我々の人生にとって有意義な「善」の書であるのに対し、朱子学と礼教を含めた「儒教」は結局、政治権力の正当化と人間性の抑圧を本領とする「悪の教学」であったことを明らかにしました。

『論語』が語るのは「愛」であり、思いやりの「恕」であり、温もりのある「礼節」であった。だが、後世の儒教や礼教はもっぱら、「大義名分」たるイデオロギーによって、人間の真情としての「愛」や「恕」を殺そうとし、実際にそれらを見事に殺した。

本場の中国よりも「朱子学中毒」となった朝鮮半島の李朝500年もやはり、窒息しそうな病的時代であったと言ってよいだろう。「権力への奉仕」を生きがいとする彼らの語る「仁義礼智信」とは、たんなる建前や欺瞞であったに過ぎなかった。

『論語』の言葉に親しんできた日本人が、自分たちの道徳観の根底に置くのは、人間の真情としての「愛」であり、思いやりとしての「恕」であった。儒教イデオロギーに支配されてきた中国社会や韓国社会は、日本とは全く違った道徳倫理観を持っていても、何の不思議はない。今後彼等と付き合ってゆくうえで、この重要な違いを心に深く明記しておくべきではないだろうか。

以上

 

2024.02


著者のエリック・バーガー氏は人気ブログ『Barking Up The Wrong Tree』の執筆者として有名なブロガーであり、脚本家としてディズニー、20世紀フォックス等の作品に関わった。また、ニューヨークタイムズ紙、ウォール・ストリート・ジャーナル紙等にも寄稿多数あり。任天堂『ウィー』のマーケティングの指針を助言するなど、一流企業からも信頼が厚い人物でもある。

初めて出版した2020年に和訳された『残酷すぎる成功法則』はアメリカでは15万部のベストセラーとなり、日本でも12万部のヒットとなりました。

今回の『残酷すぎる人間法則』は20233月に和訳の初版が発行されました。

ブログの『Barking Uphe Wrong Tree』の直訳は「間違った木に向かって吠える」ですが、日本語的には「お門違いに非難する」、「見当違いだよ」と言う意味合いである。

著者は“エビデンス”を示すという事にこだわり続け、根拠となる調査・実験結果・論文などをベースに、自己啓発を科学化させた。そこが有名人気ブロガーになった一因でもある。

今回の本の中で著者は、「人間は一人では生きて行けない、コミュニティに関わる事が大切である」と結論付けている。前々回に取り上げたイギリス人の著書「100年時代の行動戦略」でも同様な事が述べられています。従って、アメリカでも、イギリスでも将来に向けての社会で生きて行くキーワードが“コミュニティへの参加”となっています。

『町会活動』がその“コミュニティ”として注力されてゆくかもしれません。

 

 

『残酷すぎる人間法則』

対人関係の嘘を科学する

                         エリック・バーカー著

 

「人は見た目で判断できる」のか?それとも、それが出来るのはシャーロックホームズぐらいなのだろうか?

「頼られる友達」は果たして存在するのか?「まさかのときの友こそ真の友」という言葉の本当に意味とは?

「愛こそすべて」なのだろうか?それとも離婚率が高い背景には、気が滅入るようなもっともな理由があるのだろうか?

「人は一人では生きて行けない」のだろうか?

人間関係の問題は往々にして、相手を正しく認識できていないことに端を発する。私たちは皆、人の性格を判断しようとして痛い目にあってきた。

練習すれば、人を正確に見極められるようになるのだろうか?相手が何を考えているのか、科学的に知る事は出来るのだろうか?嘘を見破る事はどうだろう?あるいは、しぐさを読み取ることは?

 

「人を見た目で判断する」ことは可能なのだろうか、という点から本書を始めましょう。

人を分析する際の真の難題は、対象となる相手ではなく、自分にある。他者の行動を解読するのは難しい。しかし、決して取り組もうとしない隠れた問題は、自分たちの脳が悪さをするという事である。一番対処すべきは自分自身の認知バイアス(考え方の偏り)である。それこそが、真に克服すべき相手なのだ。

人の心を読み取る力を向上させる第一歩は、興味を持つ事である。しかし、問題はこの能力を改善できる程度は限られている事である。何かに注目するなら、ボディランゲージではなく、相手の話し方に意識を集中させる方がよい。声が聞こえて、姿が見えない場合、相手に共感する能力は4%しか低下しない。ところが、姿は見えても声が聞こえない場合には54%も低下してしまう。対象の人物が脚を組むしぐさより、その声色が変化する瞬間に注意を注ぐ方が効果的なのだ。

ある調査では、被験者が初めて見る人の笑顔を見ただけで、10の基本的な性格特性のうち9(外向性、自尊感情、政治的指向など)について、3分の2の確率で正確に見抜く事が出来た。第一印象は驚くほど正確な事が多い。人々は、短時間接触しただけで相手の能力を本能的に判断するのが得意なのだ。つまり、あまり考えない時の方が、私たちの判断はより正確だ、という事だ。

しかし、一度定まった印象を改めるのは極めて難しい。

第一印象の精度は最大で70%だ。つまり、10人中、少なくても3人については間違っている事を忘れてはならない。しかし、研究結果では少なくても初対面では常に「見た目で判断」するし、それは止められない。判断を完全に保留することは不可能で、訓練をしない限り、時間をかけても精度は上がらず、むしろ最初の判断に対する確信をますます深めていくだけである。だから、人を見た目で判断しないことに重点を置く代わりに、間違いなく下してしまう判断を修正する事に力を注ぐ方がうまくいく、とするのが有効だろう。

 

「頼れる友達」は実在するのか

あなたにとって、最も幸せな瞬間を思い浮かべてほしい。

それは、必ず“人”と関わっている。最もつらい瞬間も、やはり人に関わる事だ。

人生を築くのも、壊すのも、全て人との関係なのだ。

例えば、友人関係。“友達”は人生でかけがえのないものの一つである事に、だれも異論はないだろう。ノーベル賞を受賞した心理学者であり、そして行動経済学者でもあるダニエル・カーネマンは、人々の幸福度を調査すると、友達と過ごしているときが最も高い事を発見した。この結果は、年齢に関係なく、また世界中のどこでも見られた。

職場において、上司を「親しい友人」と見なす人は20%弱であるが、その人達は仕事を楽しめる確率が25倍高くなる。職場に親しい友人が3人いると、人生に幸せを感じる可能性が96%高くなる。2006年のある研究では、親しい友人が10人いる乳がん患者群と親しい友人がいない乳がん患者群を比較した。すると前者の生存率は、後者の4倍になった。これは男性についても同じで、友人の存在は、心臓発作の減少をもたらした。

厄介なのは、「友達」が本当に意味するところが何か、はっきりわからない事である。

友情に関する研究者で、アリゾナ州立大学教授のダニエル・フルシュカによると、「友達」という言葉は英語において、「父」や「母」を抜き、他のどの人間関係用語より多く話され、書かれているという。それなのに、この重要で協力で幸福をもたらしてくれる関係は、日常生活で不当な扱いを受けている。どういうことか?

他の人間関係とは異なり、友情には正式な制度が無い。法律や宗教、雇用主、血縁などによる裏付けもない。友情は100%自発的なもので、明確な定義も社会的合意による期待も殆どない。その為、友人関係は脆くて壊れやすい。だから、老若男女を調査すると、かつての友人の半数が、7年以内に親しい友人ではなくなっている、という結果が見いだせるのも、不思議ではない。

友情が与えてくれる様々な喜びや恩恵にもかかわらず、数々の研究で、生涯にわたる関係を最も築きやすい相手は、結局、友人ではなく兄弟であるという結果が示されている。

しかし、友情のもろさはまた、その計り知れない強さの源でもある。秦の友情が、配偶者や子供達より私達を幸せにしてくれるのはなぜだろう?友情は常に意識的な選択であって、決して義務ではないからだ。いかなる制度による支援もない代わりに、強制もない。友情には偽りがない。相手も自分も、いつでも立ち去れるからだ。その脆さが純粋の証なのだ。

アリストテレスは「自分に対するように、互いに心を寄せる関係で、友人とはもう一人の自分である」と語っている。

持続する真の友情を築き、維持していくには、「時間」と「脆弱性」という高価なシグナルを相手に示さなければならない。私達が目指すべきものは、他人の中に危険性より良いものを見出す、恐れを知らぬオープンな愛である。制度的な裏づけが無いないのが友情であり、忘れてはならないのは感謝かもしれない。

 

最近の離婚の統計を見ると、米国では結婚の約40%が離婚に至っている。浮気は4年目に多く、結婚から4年後の離婚が最も多い。しかも、こうした統計は世界的にみられる。

結婚すれば健康で幸福になれるわけではなく、良い結婚をすれば健康で幸せになれるのだ。かたや悪い結婚は、とても悪影響を及ぼす。

幸せな結婚であれば、心臓発作、がん、認知症、死亡率など、全てが改善する。結婚している男性は、寿命が平均7年延びる。

但し、不幸な結婚生活を送っていると、一度も結婚しなかった場合に比べ、健康状態が著しく悪化する可能性がある。病気になる可能性が35%高くなり、寿命が4年短くなる。

再婚者は、全く離別しなかった人に比べて深刻な健康問題を抱えている人が12%多く、また、離婚経験のある女性は、再婚してもなお心血管疾患になる可能性が60%高かった。

5000人の患者の記録を調べ、人生で経験する最もストレスの多い出来事を分析したところ、1番は配偶者との死別で、2番目に離婚がストレスの大きいことが分かった。

本来人間にはかなり回復力があるものだ。どんなに悪い事が起ころうと、ほとんどの場合、幸福度はいずれ基準値に戻る。ところが、離婚の場合は違う。3万人を対象とした18年間に及ぶ調査によると、結婚が破綻した後、主観的な幸福度は回復を示すものの、もとのレベルには戻らないことが分かった。つまり、離婚すると、幸福度が持続的に低下するようだ。

アメリカでは、離婚率40%、別居中1015%、慢性的不幸な既婚者7%となっている。

 

人は一人では生きて行けない

1920年、米国の人口の1%が一人暮らしだった。現在は7人に1人が一人暮らしで、これは全世帯の4分の1以上に相当する。北欧諸国では、単身世帯の割合が45%に近付いている。その他の国でも上昇傾向がみられる。第二次大戦以前は、一人暮らしは経済的に難しかった。豊かになるにつれ、人々はより多くの自由とコントロールを求めるようになった。私たちは自律性が大好きだが、それによって孤独になっているという指摘もある。

孤独研究の第一人者、ジョン・カシオッポの研究によると、孤独感が心に及ぼすダメージは、物理的な攻撃に相当するという。ストレスホルモンの上昇は、誰かに殴られた時のそれに匹敵する。孤独によって、脳は常に厳戒モードになる。実験では、孤独な人はそうでない人の2倍の速さで危険性を察知するという。何が起きても誰も助けに来てくれない、というような姿勢は、幸福感につながらないことは確かだ。1800年以前の書物では、この「孤独(loneliness)」という言葉をほとんど見いだせない。見つけたとしても、それは単に「一人でいる」という意味で、否定的な意味合いはない。

では、数世紀前まで孤独に否定的な意味がなかったはなぜなのか?

一人でいる事は、イエスやブッダ、ムハンマドの精神修養において重要な役割を果たした。人々が、「自分自身の時間が必要だ」とか、「すべてから離れたい」と言うときに求められるものだ。ニュートンが万有引力の法則を発見したのは、1665年に故郷ウールズソープにこもっていた時だった。アインシュタインは、毎日森の中をひとりで散歩する事の効果を強く信じていた。

歴史的に、人々は総じて、人との交流と単独で過ごす時間のバランスを保ちながら生活していた。一人で心地よく時間を過ごせる人と、一人でいるのが耐えられない人では、どちらが成熟した大人だろうか?

私たちは、一人でいる事を病的な事と見なしてきた。実はこれが私達の犯している過ちだ。

孤独は、実際に1人でいるかどうかと関係が無い。孤独とは主観的な感情だ。群衆の中で孤独を感じた事は、誰でもあるだろう。孤独とは、一人でいる事ではなく、意味あるつながりを感じられない事なのだ。その原因は、コミュニティが失われたことにある。

コミュニティの欠如は、生活や人間関係でさらなるコントロールを求める方向へと向かわせる。その結果、心が満たされないデジタルな手段での関係を選ぶことになる。ソーシャルメディアは悪ではない。しかし、私たちはとかくそれを本物の人間関係やコミュニケーションと置き換えてしまうので、しばしば弊害の方が利点を上回ってしまう。

今日の“超個人主義社会”の結果、幸福度が下がり、うつ病が増えている。

私たちに必要なのは、コミュニティともっと関わる事だ。それが人間本来の姿であり、災害時につかの間、近代化の皮が引きはがされると、あるがままの人々がいかに協力的であるかがわかる。ハリケーン・カトリーナなどで示されてきたように、最悪の状況でこそ、私たちは最善の状態になる。ともに集団的な問題に立ち向かい、「共同体」になるとき、個人的な快適さなど大した問題でない事に気づく。お互いの為に犠牲を厭わなくなり、さらに気持ちまで満たされる。

しかし、大災害や戦争を待つ必要はない。コミュニティの順位を上げよう。私たちは皆、誰かが気にかけてくれることに気づく必要がある。自分が独りぼっちではない事を、また、どんなことがあろうと助けが来てくれることを知っている必要があるのだ。

「人は独りでは生きて行けない」

これが、真実である。

以上

 

※ハリケーン・カトリーナ

 20058月合衆国南東部を襲った危険度最大のカテゴリー5の大型ハリケーン。

 ルイジアナ州を中心に1836名の死者を出した、アメリカ史上最も被害の大きかったハリケーンの一つ。

 

 

2023.10